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中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

渡部愛都子『新体操はスポーツか芸術か』

新体操という競技にはあまり関心がなく、この前のオリンピックでもほとんど見ていないけれど、競技武術がそのルール上、同じ採点競技である新体操やフィギュアスケートを参照しているのは明らかだと思う。その意味で、ブルガリア新体操界における「新体操は芸術か、スポーツか」という議論を紹介するこの本はとても興味深かった。

新体操の一つの「作品」は、「難度とアーティスティックによるスポーツとしての文法」と、「得点とは関係なく、純粋に芸術を表すための文法」から構成されている。筆者は、言語学の用語を援用しつつ前者を「主文」、後者を「モダリティ」と呼ぶ。また、得点の対象とはならないけれど、作品の全体性や統一性を示し、見ているものがあたかも芸術作品を見ているような感想を抱くのは、後者によるところが大きいと述べる。

この本で紹介されるブルガリア新体操は、このモダリティ部分の卓越した表現で、高い評価を得てきた(らしい)。

ところが、旧社会主義圏で、資本主義のスポーツ文化とは異なる身体文化として生まれ、社会主義的なスポーツ体制で守られていた新体操競技の運営は、90年代に入り転機を迎える。

社会主義体制が崩壊したあとは、民間の資金の範囲内で、次々に変動するルールに追われざるを得ない、困難な時代が続くことになった。そのため、新体操関係者は、理想の基軸を求めることが不可能になった。なぜならば、資本主義社会においては、あくまでも「成績」という名の業績を積まなければ、新体操の存続そのものが、危うくなるからである。(P.138)

具体的には、1990年代にはいって行われたルール改訂で、動作の難度をより重視する方向が決定的になると、もはや一つの作品としての統一性にまで注意を払っていられない状況が生まれているらしい。この本では、その点を、具体的な「作品」に占める「主文」と「モダリティ」それぞれの割合が、ルールに対応してどのように変化しているかを提示することにより客観的に示そうとしている。

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単純な比較は慎むべきかもしれないけれど、新体操競技にとっての「芸術性」をめぐるこうした問題は、武術競技における「技撃性」をめぐる問題とよく似ている気がする。
また、新体操競技において「モダリティ」によって浮かび上がってくる作品の「主題」や「統一性」は、武術競技における「風格」や「味」「味道」と置きかえるとわかりやすいかもしれない。

若干繰り返しになるが、筆者によれば、このような「モダリティ」こそが、作品の「主題性」、「統一性」を生み出し、観客に、あたかも一つの芸術作品を見ているような感覚を呼び起こすのだけれど、「モダリティ」が軽視されることになった結果、作品の統一性が損なわれ、「単なる技の羅列」にしか見えない状況が生まれているという。

採点尺度の客観性、公平性を優先した結果、本来重要なはずの「芸術性」が損なわれてしまったという問題提起は、「難度」を中核に、採点の客観性、公平性を追求することで武術の本質であるべき「技撃性」が失われているのではないか、という議論とよく似ている。

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もちろん、武術競技の設計者たちは、武術競技が専門ジャンルとして確立すればするほど、伝統武術から乖離してゆくことなど、百も承知である。温力氏などは、競技が高度化することによって武術競技の「技撃特点」が薄まることは仕方ないことだ、と、著書の中ではっきり述べている

選手や審判など、武術競技の当事者にとってはそれでいいのだろう。しかし、高度な身体操作を伴う演技であっても、観客に「これのどこが武術なのか。武術と雑技は何が違うのか」という感想をもたれてしまってもいいのだろうか。どうも今の武術競技は、選手と観客が共通のイメージを描けない、観客がが置いてきぼりになっている気がして仕方がない。

いまの競技スタイルこそがすきだという人には、どうぞご自由にという他、特にコメントはないけれど、伝統派も競技派も納得できるような競技というのは存在しないのだろうか。そんなことを改めて考えさせられた。

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そのほか、この本を読んで、新体操と競技武術は、同じソビエトという「ビッグブラザー」の指導のもとにはぐくまれた旧社会主義のスポーツ・身体文化という共通点をもっていることを改めて感じた。ソ連の崩壊が引き金になるかのように、90年代に大きな変革を迎えたこともよく似ている。時代を遡って、中華人民共和国の建国初期、武術競技が設計されてゆく過程で、新体操がどのような影響を与えているのか、いないのか、もう少し細かく比較することができたら面白いかもしれない。
たとえば、イサドラ・ダンカンの舞踊から、リズム体操、芸術体操(新体操)とつながる流れのなかで、「音楽」と身体運動の相関関係が一貫して重視されていることと(第1章に詳しい)、武術競技において「節奏(リズム)」が重要なポイントの一つとして挙げられていることとは何か関係があるのかないのか。音楽を伴う武術の型の演武はどういう経緯ではじまったのか(古代はともなくとして、近代以降どういう説明がされているのか)など、いろいろな切り口を得た気がした。

いま、このような問題点を調べる資料はないけれど、蔡龍雲が、建国当初、武術競技の鑑賞のポイントを当時の新聞に発表した文章(『琴剣楼武術文集』にある)にヒントがあるかもしれない。

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なお、2008年の北京オリンピックにおける武術競技の採用に向けた活動(とその挫折)を経て、武術運動管理中心は、2009年に、1988年以来21年ぶりに武術の定義を見直していることは改めて認識しておく必要があるだろう。この新定義では、(1)民族スポーツの一「種目」であると断定的に述べていたそれまでの定義から、中国文化の広汎な内容を背景にもつ民族スポーツとし、スポーツには納まりきらない文化性が協調されていること(この点は、体育行政だけで武術のすべてを担えるものではないという問題意識をはらんでおり、重要)、(2)「技撃動作」が「主要内容」から「基本内容」に変わっていることなどが注目に値する。

新体操はスポーツか芸術か

新体操はスポーツか芸術か "Is Rhythmic Gymnastics a sport or an art?"