中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

緊那羅

現代武術を「様板武術」と批判している少林寺の釈永信方丈、少林寺における武術は、あくまで仏教の修行の一部であって、本来は「少林功夫」と呼ばなければならないと主張している。いいかえると、修行という側面が伴わない、単に人を撃つための技術練習は「少林功夫」ではなく、そこに「少林武術」と「少林功夫」の分かれ目が明確に存在するのだという。そして、面白いことに、少林寺の中にも武術の鍛錬が「修行」になっておらず、「少林武術」のレベルにとどまっているものがいる、といった趣旨のことを記している。

ところで、釈永信方丈は、別の文章で仏道の修行としての少林功夫には、明確な信仰の対象があるとも述べていて、具体的にその信仰の対象は「緊那羅」なのだという。
緊那羅」にまつわるお話は川口賢さんの日本少林拳同盟会のHPでも紹介されているけれど、厨房で働く炊事僧であったとの伝説もあるらしい。

少林武僧にはこの「緊那羅」の法力に対する信仰があり、倭寇と戦った武僧らは、ドラマで描かれるような僧侶の格好ではなく、顔を青く塗り、あきらかにそれとわかる格好であったのだという。

緊那羅」を実在の炊事僧だとする上記の解釈とは別に、釈永信方丈は、「緊那羅」は本来、「那羅延執金剛」神であるという解釈を示している。「那羅延執金剛」神をどう解釈してよいのか、仏教の知識がない自分にはよくわからないけれど、文脈上、那羅延と執金剛(密迹金剛)という、2体で一対の「金剛力士」のことをいっているのではなく、「金剛(杵)をもった那羅延」神と読むべきなのだろう。

この那羅延天について調べると、ヒンドゥー教の神・ヴィシュヌといわれていることがわかる。

この緊那羅/那羅延天少林寺の守護神(伽藍神)になったのは、元朝至治年间(公元1319年~1322年),鳳林禅師の時代のことであるという。
少林寺の棍棒が有名になる過程で、金剛杵をもった姿で描かれることが多い那羅延が主神に結び付けられたのではないかと思われる。

執金剛神 
密迹金剛 
大黒天 
那羅延 

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最近、東洋文庫の『五台山』を読んでいたら、元の中国支配にともなってラマ教の要素が中国に広まる過程で、「摩訶迦羅」という武神への信仰がひろまったと書かれていた。その「摩訶迦羅」、厨房の神様でもあり、黒い顔をしていたので、日本では大黒天、大黒さまとして親しまれている。

顔を塗っていたり、厨房の神様であったりということで、上記の「那羅延天」と関係があるのではないかと思ったのだけれど、調べてみると摩訶迦羅はヒンドゥー教ではシヴァの化身であるマハーカーラにあたるらしいので、上記の那羅延天とは明らかに出自が異なる。それでも、少林武術で描かれるところの「緊那羅」は、武器を持ち、顔を塗り、厨房の神さまでもあるということで、この那羅延と摩訶迦羅の二つのイメージが混じっているように思われる。どこでこのようにイメージが混交したのかはよくわからない。

五台山の武僧たちの武術と、この摩訶迦羅の関係はよくわからないけれど、馬明達教授の「五台山的僧兵與武藝」という文章を読むと、元がラマ教・摩訶迦羅を持ち込む前から、五台山の僧侶は武装していたらしいことがわかるので、五台山の武装たちの武術と摩訶迦羅に、少林功夫那羅延天のような関係はないのかもしれない。

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ふと思い出してみると、映画「新少林寺」では、少林寺の炊事僧を演じたジャッキー・チェンが最終的には少林寺の周囲の人々を守る役割を演じていた。やはり、あの映画は、苦難の時代に緊那羅が現れて、寺と人々を救うという、仏教説話だったのだと妙に納得。

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『五台山』に書いてあったもうひとつの面白いお話。
戦いの神「摩訶迦羅」への信仰を含めラマ教への信仰の厚い蒙古軍が攻めてきたとき、 「真武神」を信仰していた 襄陽(湖北省)の人々は、この真武神に、守ってくれるよう祈ったところ、「大黒神軍(いくさ)を率いて西北の方より来る。吾もまたまさに避くべし」つまり、早く逃げようというお告げがあったのだという(P132)。
この真武神、道教の真武君、武當山で祭られている「真武君」と同じだろう。

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このあたり、あまり深入りすると抜けられなくなりそうだけど、いままで考えたこともなかった切り口ではある。

释永信:少林功夫源于佛教信仰
发布日期:2010-07-05
◎释永信
这个题目不太好谈。有信仰的人与没有信仰的人在人生目标、思维方式和行为方式上,都存在着根本不同;中间有隔膜。佛教徒有自己特定的信仰、人生目标、思维方式和行为方式。这在佛教徒看来,当然是正常的,日常的,但在有些人看来,可能就不可理解,或者误解。尽管中间有隔膜,但是我相信,如果双方相互尊重,多交流,肯定有益于理解,最终消除误解。这次话题是少林功夫,这应该是热爱少林功夫的人都感兴趣的话题。
少林功夫源于佛教信仰,是佛教文化的一种表现形式。出家修行,就是为了超越世俗生活,超越自己,追求超常的智慧,追求超常的能力。对于超常能力(即神通、神异等能力)的渴望,从来都是佛教徒的追求目标之一。少林功夫的物质,就在于它是一种信仰,一种对于超常能力的信仰。这是少林功夫与其他武术根本区别所在。少林功夫信仰有主神,叫紧那罗王;少林寺有紧那罗王殿。练少林功夫的人都应该知道这一点,并且都信仰、供奉紧那罗王。不练少林功夫的人,一般不知道紧那罗王在练少林功夫者心目中的神圣地位;即使知道紧那罗王,也只是把他当作神奇故事而已。而练其他武术的人,由于不了解少林功夫的信仰内情,所以,他们与少林功夫做比较时,只看到少林功夫技术层面的特点,而完全忽略了少林功夫的信仰内容。这是人们误解少林功夫最主要的原因所在。
由于人们忽略了少林功夫的信仰内容,直接导致人们在追溯少林功夫源头时,只看重少林功夫技术层面的作为武装力量的史实,而根本看不到少林功夫作为佛教文化的信仰源头。将少林功夫源头附会在后世形成的传说上,固然荒谬;但现在很多武术史书和文章上,将少林功夫源头直接归结到隋末少林僧助唐史实上,实为勉强。至于认为少林功夫形成于明代中期的观点,则显得过分拘谨。
少林寺僧人都知道,少林寺内祖祖辈辈流传着少林功夫神传的说法。这种“神传”的说法,正表明少林功夫源于佛教信仰的事实。这种“神传”说法,由来已久。现在我根据佛教典籍及相关史料,从禅法、愿力、持咒等三个方面,来说明历史上少林功夫作为佛教信仰的具体表现。
道宣《续高僧传》卷十六“释僧稠”:
初从道房禅师,受行止观。房即跋陀之神足也。既受禅法,……便诣少林寺祖师三藏,呈已所证。跋陀曰:自葱岭以东,禅学之最,汝其人矣。乃更授深要,即住嵩岳。寺僧有百人,泉水绕足。忽见妇人弊衣挟帚,却坐阶上,听僧诵经。众不测为神人也,便诃遣之。妇有綋色,以足蹋泉,水立枯竭,身亦不现。众以告稠。稠呼优婆夷,三呼乃出。便谓神曰:众僧行道,宜加拥护。妇人以足拔于故泉,水即上涌。……后诣怀州西王屋山,修习前法。闻两虎交斗,咆响震岩,乃以锡杖中解,各散而去。
这是唐朝初期关于僧稠神迹的记载,作为史实,或可怀疑,但作为宗教信仰,却是真实的,我们可称之为信仰真实。僧稠为少林寺开山祖师跋陀弟子,继跋陀后住持少林。他的禅法和神迹提示我们,少林功夫在信仰层面的直接源头,就是少林寺开山祖师跋陀的禅法。这是基于禅法之上的神迹和超常能力信仰的表现。于唐朝中期,由于《妙法莲华经》的盛行,观音菩萨愿力信仰开始兴起,少林功夫的信仰又出现了新的形态。唐张鷟《朝野佥载》“稠禅师”条:
北齐稠禅师,邺人也,幼落发为沙弥。时辈甚众,每休假,常角力腾踔为戏。而禅师以劣弱见凌,给侮殴击者相继,禅师羞之。乃入殿中,闭户寸包金刚而誓曰:“我以羸弱为等类轻侮,为辱已甚,不如死也。汝以为闻,当佑我。我捧汝足七日,不与我力,必死于此,无还志。”约既毕,因至心祈之。
同样是僧稠行迹,信仰形态已经有所改变,前者是禅法,后者是愿力。在少林寺历史上,愿力信仰至金朝仍有所表现,今少林寺碑廊东壁尚存金初初祖端禅师住持少林期间所立《那罗延执金刚神像》碑,碑上那罗延金刚执金刚杵,祼胸跣足,威风凛凛。碑上部有文,录文如下:
妙色那罗延执金刚神天身吉祥无边力印
先须安净身心坐定,以两手四指向掌内交叉,仰掌向上,指亦向上,直竖二大拇指,各附二食指侧,大拇指来去,咒曰:
跢姪佗,唵,那罗延提菩斯;讫柳,嘘拏,讫柳,嘘拏,莎诃。
经云此神即观音示现。若人尽心供养,持此印咒,则筯长身力,无愿不获,灵验颇多。口能具说以灵验,故学其印、求其咒、模其像者多。故立石,以广其传。
住少林祖端上石
此段文字表明了那罗延金刚神信仰作为观音菩萨愿力信仰的具体内容和表现方式。文中所称“经云”,即指《妙法莲华经·观世音菩萨普门品》中观音菩萨示现执金刚神一项,故说“此神即观音示现”。
在元朝至治年间(公元1319年~1322年),凤林禅师住持少林期间,那罗延神被尊为少林寺护法神,“开创伽蓝堂”供奉,即今之紧那罗王殿。至元末明初,那晚看家金刚神愿力信仰又被赋予了全新的内容。据正紱十二年(公元1517年)少林住持文载禅师立《那罗延神护法示迹碑》,录文如下:
原夫释迦文佛,示现周昭王甲寅岁。至后汉明帝永平中,教法始传中国,至洛阳首建伽蓝,肇自白马寺焉。凡天下寺院,皆有护法神而守护之,乃曰护伽蓝神。按传灯录:隋开皇中,天台邈禅师居荆州玉泉山,有神通谒称蜀前将军关羽,以战功庙食此山,闻师欲营精蓝,愿庀役事。七日而成,捷出神巧,事闻丈帝,敕封玉泉山护伽蓝神。且如少林寺者,乃后魏所创,历隋至唐宋间,未闻何神为伽蓝守护神也,无典可考矣。今其伽蓝神,据景躅集所载,乃大元至正十一年辛卯三月二十六日巳时,颍州红巾初起大乱,来至少林寺。有一圣贤,先在大厨中作务,数年殷勤,负薪执爨,篷头跣足,朝暮寡言,不动众念,无姓贯名,常修万行。至日红巾临寺,菩萨持一火棍,独镇高峰,红巾畏之而退,则时即没,后觅不见。乃知菩萨示迹,永为少林寺护法,坐伽蓝之地。僧人子用记。子既睹景躅集,常欲述文,以彰神功。乃谋于众,今本寺僧周载、洪然,慨然命工,勤诸于石,始将来有所考焉。命记之述之如左乃为铭曰:
维兹梵刹 少室之阳 般若悬识 鼻祖道场 守护伽蓝 那罗延王 神威烈烈 难尽赞扬 凡有祈祷 必赐祯祥 善恶报应 影响难藏 护法护人 乃隆乃昌 惟神鉴格 电瞩雷鍠 皇国亿兆 法社筯光 灵山会嘱 永作金汤 住山稽首 灵咒昭彰
至此,我们今天所熟悉的少林寺功夫所崇拜供奉的神格,已经成型。明朝中期,那罗延执金刚神被寺僧误称为紧那罗王神,从此代代相传,沿袭不改。傅梅《嵩书》(明万历中十年,1612年)等,程宗猷《少林棍法阐宗》(万历四十四年,公元1616年)等,皆有采录。程宗猷《少林棍法阐宗》还记载了哈嘛师(西藏喇嘛)在少林寺授武事迹:
嗣有哈嘛师者,似亦紧那罗王之流亚,曾以经旨授净堂,以拳棍授匾囤。匾囤尝救人苗夷中,苗夷从尊而神之。
程宗猷在万历初入少林寺习武十几年。在他在心目中,哈嘛师已被视为神僧了。又,明朝名将俞大猷应诏自云中(今山西大同)赴福建沿海抗倭途中,亦因为“予昔闻河南少林寺,有神传长剑技(指棍术)”,特地取道少林寺观武。
即使为人们津津乐道的明嘉靖年间少林寺武僧赴江南抗倭事迹,僧人们也并不是以世俗眼中的僧兵形象,而是以紧那罗王神的形象出现的。郑若曾《僧兵首捷记》:
天员引骑兵左右闪开,诱贼前进。贼先发矢,僧兵亦发矢。无极摧阵,呼伽蓝三声,大喊:杀!杀!
僧兵临战暗约以靛青涂面。贼见青脸,红巾蒙头,疑为神兵,胆已禠落。
文中的“靛青涂面”“伽蓝”,就是紧那罗王神形象。在上述所引的材料中,我们不难感受到明朝少林寺深厚的紧那罗王神信仰氛围,以及在这种深厚的紧那罗王神信仰氛围中少林功夫的具体表现。
少林功夫作为一种佛教文化,还有一种表现形式:持咒。据清康熙三十一年(公元1692年)《云南鸡足山志》“匾囷和尚”条:
匾囷和尚,不知何许人,居百接桥东土龛。日惟种圃,夜则跏趺,常以草席为囷,趺坐其中,囷形稍匾,故人呼为匾囷和尚,人传师持紧那罗王神咒。
匾囷即匾囤。匾囤为明代少林寺高僧,以神异闻名于世。其所持咒语即上文金初祖端禅师住持少林期间所立《那罗延执金刚神像》碑上所载之咒文。
上面我们从禅法、愿力、持咒等三个方面,对少林寺功夫作为佛教文化的特质做了初步的介绍。信仰是宗教存在的前提。没有信仰,宗教就不成为宗教了。少林功夫是从佛教信仰和修行中演化出来,并发展成我们今天所熟悉的形态,这是历史事实。佛教作为宗教,确实有着与世俗社会有别的信仰、人生目标、思维方式和行为方式。少林功夫的发生和发展,就是一个很典型的例子。对于人类超常能力(神通、神异等能力)的信仰,在世俗社会看来是不可思议的,甚至被视为迷信;但在佛教徒看来,实在是最正常不过了。

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五台山 (東洋文庫)