人物
国民党時代の全国運動会は、1935年が第6回、日中戦争をはさんで第7回は1948年のはずだけれど、上海市では1937年6月に、第7回全国運動会のための予選が行われていたらしく、6月8日の時事新報に、男女の射箭、弾丸、踢毽、拳術、博撃の「初選」についての記事…
まとまりのない感じになっているけれど、色々整理がついていない点も含めて、とりあえずの備忘録・頭の体操として。 ******** 少し前にSNSで、倭寇と戦う明軍兵士が双刀をもっている画像が流れてきた。 www.facebook.com その後、地元の図書館に行って、この…
SNSで、王子平と北京の中央公園で戦ったとされる「康泰尔(爾)」に関する写真が、日本で「発見」された、という記事が流れてきた。 Mantis Boxing and Staff Combat: Chongdetang (Чундэтан) 記事によれば発見者はF.Kuvasovという人で、彼が発見したという…
チャンネル銀河で10月9日から12月1日まで放送されていた、中国ドラマ『鏢門』。 公式サイトによれば中国では「圧倒的高評価」を得たとのこと。このブログ的には、『逝去的武林』の徐浩峰(注1)が脚本で参加しているということもあって、見てみた。 www.ch-gi…
たまたま地元の図書館で手に取った本。 en.wikipedia.org 以下は、飢餓救済のためにリチャードが山西にいたころの出来事。 ある日、儒教の書院の院長が私のところにやって来て、「われわれの古典のなかには、体の組織の破壊を食い止め、結果として動物の冬眠…
1948年の8月と9月に、上海で中央国術館が東北分館設立の資金集めのために表演大会を開催していて、告知記事や記者発表の様子、実際の活動の様子いくつかが短い記事になっている。具体的には以下のとおり。 東南日報8月10日の記事は開催趣旨が明確。開催はも…
約1年前に入手した『完訳版 紫禁城の黄昏』、買ってすぐに読まずにいるうちに、関心が別の問題に移ってしまい、しばらく置いておいたままにしていたのをようやく読み終えた。 直接的には武術と関係ない本なので、武術について言及されている箇所もあまりな…
明治のジャーナリスト・渋川玄耳の『岱嶗雑記』には、馬良の中華新武術について触れた個所がある。馬良は確かに書家としても有名だけれど、「妙な風の字を自慢に書く」と評しているのが面白い。 ※以下の引用はすべて現代表記に適宜改めた。 済南鎮守使馬良は…
張作霖の軍事顧問を務めた町野武馬の父・町野主水を主人公にした小説『その名は町野主水』を地元の図書館で借りたついでに、同じ著者の『侍たちの海─小説 伊東祐亨』を読んでみた。 北洋艦隊の丁汝昌提督への降伏勧告と、丁提督の自決のエピソードは、なかな…
1940年の東亜競技大会(東京開催)には国術代表団がいたことがわかっていたけれど、それに続く1942年の東亜運動大会(満洲国 新京開催)に国術代表団がいたことは知らなかった。 『新申報』1942年6月21日付の記事と代表団の名前を以下に記しておく。別の競技…
「国術」とか「国考」というキーワードで検索しても出てこないので見落としていたけれど、アジア歴史資料センターのデータベースの中に、昭和3年10月24日付で、南京の岡本一策領事から、田中義一外務大臣宛に、国術国考の実施を伝える公電というのがあ…
以前にメモしたけれど、中央国術館の張館長(このときはまだ「館長」という肩書はないので、「理事」と呼ぶべきか)は、国術館(研究館)の設立後まもない1928年の6月に西北軍以来の随員や、王子平らを引き連れて蘇州青年会の招きで蘇州を訪れ講演と演武を行…
ベルリンオリンピック(1936)の国術代表団の選抜過程について、その後新たにわかったこと。 いろいろ脱線したり、詰込みすぎの感もあるけれど、そもそもが備忘録、雑記帳なので気にしないでおく。 1934年の10月には、早くも選考基準らしきものが発表されて…
最近さかんに参照している、華字新聞データベースは、発行地域に限りがあったり、メジャーな新聞が入っていなかったりという限界はあるけれど、もはやこの時代のことを語るのに、裏を取る意味でも参照しないことはありえないほど貴重な情報源になっている。 …
1936年11月、上海で起きたストライキが青島の日系紡績工場に波及し、背後でデモ隊を使嗾している者(上海からの運動員の潜入も)がいると日本側が疑いをかけるなか、市政府側の対応の遅さに業を煮やした日本軍が「邦人保護」を理由に海軍陸戦隊を上陸させ、…
アジア歴史資料センターの公文書より寺西秀武「青島に於ける張樹元と馬良」(大正十年五月二十六日付の、「九江ヨリ南京ニ下航中(第一報)」の一部) 「小生去ル四月二日青島二着シ張樹元ト同宿シ四回張馬両人ト密談ヲ交ヘタリ 右両者ハ表面何等野心無キカ…
この前、唐豪の1910年代後半から1920年代前半の活動(理由はおおよそ想像がついたけれど、書籍等ではほとんど紹介されていない)について調べていて気が付いたのだけれど、唐豪には唐越石という名前の弟がいたらしい。 北京の国立美術専門学校の優秀な学生(…
笠尾恭二『中国武術史大観』(復刻版が出たけれど手元にあるのは旧版のみ)をぱらぱらと見直していたら、馬良の中華新武術について紹介した箇所で、1918年の5月に日本の禅僧・関清拙が済南の馬良邸を訪問しており、そこで中華新武術を含む各種の武術の演武を…
1927年12月14日の民国日報に、張之江が国民政府委員に任命されたときに、彼にしたがって、彼の「河南勦匪総司令部の随員」は一律国民職員に編入するとして、以下の人々の所属と肩書が紹介されている。 秘書長 孫玉誠 国府秘書 上校参謀 駱斌 国府一等候差員 …
「Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers」で、中央国術館の成立前後から、第一回国術国考あたりまでの動きについて調べてみた。 新聞報道を時系列で眺めてみると、いろいろな発見がわかり、『中央国術館史』の記述もかなりアテにならないことが…
先日見つけた華字新聞のデータベースから、中華武士会会長を退いたあとの葉雲表の動向について、いくつか興味深いことがわかった。まずは、どうやら二度目(三度目?)の日本留学を目指していたらしいこと。 専攻分野としては一回目の留学と同様に「商科」を…
天津中華武士会の初代会長、葉雲表については、よくわからないことが多い。 具体的には特に、 1.なぜ、彼が会長に選ばれたのか。 2.会長就任が設立後数日でしかないのはなぜか。 3.中華武士会会長就任前後、どこでなにをしていたのか。 といった点に特に興味…
佐倉孫三は二松学舎の三島中洲の門人。警察関係のキャリアを積みつつ、言論家としても活動していた。台湾に二回(1895~1898、1912~1915)、福建(1904~1910)に一回赴任しており(注1)、『臺風雜記』は1895年~1898年の最初の台湾駐在中の見聞を漢文で記…
アジア歴史資料センターのデータベースから、本当に偶然見つけた、マル秘と印の押された史料。洮南(清朝時代は洮南府、中華民国では洮南県、現在は白城市の県級市(注)。 〇「洮南県下に於ける侠義者(侠客)調」 出典:「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref…
たまたま発見した史料。 多賀宗之は1902年から1908年まで8年にわたって保定軍官学校の教官を務め、清朝滅亡後は川島浪速らの満蒙独立運動にかかわるが、当初、この動きを黙認していた政府の方針が一転すると、「蒙古挙兵計画は、実際には参謀本部・外務省な…
調べたいことがあって地元の図書館で国会図書館の資料を見ていて、時間があまったので、なんとなく「武田熙」というキーワードを入れてみたら、いくつか見たことのない資料がヒットした。 なかでも、雑誌『新天地』の昭和15年11月、12月号の二回にわたって掲…
中古本をアマゾンで300円足らずで購入。 秘密社会と国家 (神奈川大学人文学研究叢書) 作者:小林 一美,馬場 毅,大里 浩秋,孫 江,並木 頼寿 出版社/メーカー: 勁草書房 発売日: 1995/04 メディア: 単行本 8名の論者の論文(うち5つは中国に関するもの)と、冒…
台湾の人形劇(布袋戯)の陳錫煌に10年間密着取材した話題のドキュメンタリーを、先日鑑賞。 machikado2019.com 祖父と同じく、彼の父・李天禄も「入り婿」であったために、長男である自分は父の姓ではなく、母方の姓である陳を継がなければならなかった。そ…
日中戦争時、中国人向けの映画製作を軍部から依頼された川喜多長政が、自分は配給に徹し、製作のパートナーとして選んだのが、新進の新華影業公司をたちあげていた張善琨。百度百科の紹介によると、タバコ会社で広報の経験もあり、黄金栄を通して青幇にも加…
前回のメモに引き続き、時代的には孫耀庭より一世代前の宦官・小徳張こと張祥斎についての本から。 張祥斎も、前回メモした孫耀庭のように、宮廷で芝居の訓練をしており、慈禧太后(西太后)の芝居好きによってその眼にとまり、出世の足掛かりを得る。 張祥…