中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

流寇と土寇、郷兵守備、民壮など

タイトルに惹かれて中古本を買ったまま読めずにいたハードカバーの吉尾寛『明末の流賊反乱と地域社会』を、年末年始の休みを利用して読んでみた。

 

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ちょうど、明末清初を題材にした、小説(金庸『碧血剣』 )を読んだり、映画(『白髪妖魔伝』)を見たばかりだったので、ところどころ小説や映画のシーンを頭に思い浮かべつつ、興味深く読んだ。

 

自分のなかであまり区別していなかったけれど、李自成の乱やそれに先立つ王嘉胤など、「流寇」「流賊」の反乱と、それらの反乱に呼応したり便乗して起こる各地の「土匪」、「土寇」による局所的な動乱は区別して理解すべきということと、これらの治安悪化に地域社会がどう対応したのか、具体的に説明されていてとても参考になり、いろいろと想像が広がった。

 以下、とりあえず思ったことを三点ほどメモしておく。

 

1.郷兵守備陳王廷

 この本では、流賊の拡大による治安の悪化に対して、兵部尚書の楊嗣昌が、南方(湖南、湖北)での実践を踏まえて民兵(郷兵)の組織訓練策を打ち出し、それが崇禎帝の裁可を受けるのが崇禎十一年(1638年)だと説明されていた。

 そういえば、陳王廷は「郷兵守備」に任じていたんじゃないかと思って確認してみると、一部のサイトには陳王廷が「郷兵守備」に任じたのは崇禎四年(1631年)と紹介されている。これだと時期的にあわないのではないかと思って笠尾恭二『中国武術史大観』をみると、『温県志』や『懐慶府志』、『安平県志』の呉従誨の事績に関する記述によりながら、陳王廷が郷兵守備として参加した温県における李自成軍との戦いがあったのは崇禎十四年(1641年)であると分析されていた。

 

具体的な史料によりながら分析されているところはさすがだと思う一方、『温県志』や『懐慶府志』では、件の戦闘を崇正(禎のあやまりとされる)の末と記しており、崇禎末年であれば1644年になること、同書では戦った相手は「河南の土寇」と書いてあることから、これを陝西から河南に入った「流賊」である李自成軍と断定するのは時期尚早なようにも思われた。

今後、『明末の流賊反乱と地域社会』で著者が試みようとしているように、史書に現れる大小さまざまな反乱を一つずつ丹念に拾い上げてゆけば、陳王廷がどの反乱グループに対処しようとしたのか、つきとめることも可能なのか知れない。素人の愛好家の自分にはとうてい出来そうにないけれど、いつかそんな専門家が現れてほしいと思った。

 

なお、 恐らく笠尾先生が大変な苦労して探し出したと思われる『温県志』や『懐慶府志』は、インターネット上で原文を見ることができる。つくづく凄い時代になったと思う。

〇「Chinese Text Project Chinese Text Project」より、ハーバード大学所蔵の『懐慶府志』

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ctext.org

 

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もう一点、陳王廷が「郷兵守備」として率いたのがどの程度の規模のグループかわからないけれど、あくまでも民兵のグループであり、彼等を率いたことをもって「将軍」と呼ぶのはやや無理があり、「陳氏家譜」の「山東にありて名手、群匪千余人を掃蕩す」という記述とも、まだストレートには結びつかない気がした。  

 

2.民壮の組織化と民間武術

 民兵の起源について、『明末の流賊反乱と地域社会』では上記のとおり崇禎十一年(1638年)と紹介されていたけれど、佐伯富「明清時代の民壮について」には、「民壮とは・・・(略)・・・民の壮丁を編成して軍隊となし、これを民壮と称したので、要するに民兵に外ならない。」とあって、民壮の組織化と活用そのものは、楊嗣昌の提言よりもっと早くから行われ、制度化されており、明末にはさまざまな弊害も出ていることがわかった。楊嗣昌の施策は、それらの実態を踏まえつつ、目前の治安悪化に対応するために打ち出された改良策と理解するべきなのだろう。

 

中国武術には歴史上、民間武術と軍隊武術の二大体系があるとはよく言われることだけれど、同論文によれば、民壮の訓練は軍営のある場所では軍と同じ「教場」で兵士と一緒になされていたようで、民間人でありながら訓練を通して軍事武術の内容を学ぶということでこの二つの体系をつなぐ役割を果したのが、こうした民壮の存在なのかもしれない、というふうにも思われた。

 

昨年参加したとある勉強会で、軍隊武術と民間武術の区別について話題になったときに、軍隊と民間の中間に位置づけられる、日常の治安維持を担う警察の機能はどのような人びとが担っていたのか、という問題提起があったのだけれど、この論文によれば地域における「補盗」なども民壮がその一端を担っていたことがわかる。

 

民壮はさらに、塩の産地では密売の取締りにも動員されていたようで、これにはノルマがあり、ノルマに達しないと逆に罰金を科されたらしい。
各地の塩運司の下でその仕事を補佐する副官が運判だけれど、以前にメモしたように八極拳の呉氏の先祖は河北や山東あたりでこの塩運司運判を担っていたようで、具体的にどんな仕事をしていたのか、どんな連中を使役していたのか、この論文を通して多少なりとも考える手がかりが得られたような気もする。

 

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もっとも、石見宏「明代の民壮と北辺防衛」には「民壮と一応別物としての民兵」とあり、民壮と民兵の違いについても、もう少し精しく勉強しなければいけないけれど、この辺の論文をヒントにしながら検討してゆければと思う。

 

「明清時代の民壮について」は1957年、「明代の民壮と北辺防衛」は1960年で、それぞれかなり古い論文だけれど、この分野の研究がその後どうなっているのかも気になる。

民壮や郷兵については、正史の記述も読まないといけないだろう。

  

3.呉殳 

 話を吉尾寛『明末の流賊反乱と地域社会』に戻すと、この本で当時の状況を説明する史料として、呉殳『懐陵流寇始終録』がでてくる。この呉殳とは、『手臂録』の著者の呉殳という理解でよいんだろうか。

 許金印点校注解『手臂録校註』では呉殳の紹介のなかでこの書についても言及されているので、おそらくその理解でよいのだと思う。

 

 この呉殳、上述楊嗣昌の流寇対策に対しては、強い批判を浴びせていた人らしい。彼はこの政策によって各地の農民の負担が増し、国力が低下したと考え「禍根は嗣昌に在り。之れを殺さざれば、必ず亡国に至る」という強い言葉を記している。

 他方、この本を読むと、楊嗣昌の施策は、実際には郷紳層の抵抗にあって骨抜きにされ、より下層な人たちへの負担増という、楊嗣昌自身が意図していなかった方向に捻じ曲げられてしまったかのようにも読めた。