沙国政、顧麗生、貴州の太極拳など
少し前に修剣痴についてメモした際に、沙国政が長沙講武堂で修剣痴の指導を受けとされていることをメモしたけれどその前後、雲南省で武術を教えるまでの沙国政の足取りをざっと調べてみた。
1927年ごろに山東から天津に出て、王之和、馬興義らと交流を深め、翟樹珍、姜容樵に学んでいた沙国政は、天津を離れて朝鮮半島の仁川にいるかつての師・王者政に再び師事する。この経緯について『中国武術百科全書』の人物紹介(執筆者は後述の張修林)は、
1930年随师王者政到朝鲜仁川传播中国武术。
と書いているだけだけれど、博武国際武術網の記事(署名無しながら、なかなか興味深い記事だと思う)は、英兵とトラブルを起こしたため天津を離れざるをえなくなり、朝鮮半島の仁川にいたかつての師・王者政のところに身を寄せたと書いている。同記事によると、当時の仁川は「万宝山事件」の影響で華僑に対する反感が高まっていたようで、王者政と沙国政は華僑の安全確保のため20数名からなる自警団を形成していた模様。そんな中で王者政が亡くなると(例によって、日本人による毒殺という説も)、秘密裡に故郷に戻り、石島(石島は彼の本籍地)塩警長の王興仁の部隊で中隊長に任じる。
そこから長沙に行ったのは、天津時代に交流を深めた王之和が呼んだのか、王之和を頼ったのか、あるいは全然違う理由・人脈によるものなのかはわからない。
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長沙を離れた沙国政が1946年に蕪湖の国術館(注)、1948年には「貴陽青年会」で指導したことは、墓碑銘をはじめ多くの記事に記されている。
蕪湖の国術館については中央国術館蕪湖分館と書いているサイトもある。この書き方だと、なんだか中央国術館と直接の上下関係、命令系統があるようだけれど、果たしてそのような関係であったのか、詳細は未確認。
なお、『中国武術百科全書』の沙国政の人物紹介の執筆者として名前の見える張修林は1946年、この蕪湖で沙国政に拝師した人らしい。
貴陽の太極拳は、安徽省の人・顧麗生が南京で楊少侯に学んだものを、貴陽に伝えたのがはじめとされる。以下の「貴陽的楊式太極拳」によると、顧麗生が貴陽に移ったのは民国26年(1937年)で、1944年に義援金集めの場で太極剣を表演、1947年の擂台賽(王之和も審判として参加した8月の擂台賽。顧麗生自身は審判長を務めている)でも汪石海(汪四海)と太極推手を表演するなどして太極拳が注目され、基督教青年会の体育培訓班で太極拳を指導するようになったという。沙国政が1948年に教えたという「貴陽青年会」もこの基督教青年会のことかと思われる。
なお、「太極拳在貴陽的伝承脈絡」によると、顧麗生が太極拳を教えたのは基督教青年会ではなく、広東省開平出身の関文偉(呉鑑泉の弟子の趙寿邨、鄧賛群、楊澄甫の弟子の盧子苓に師事)が基督教青年会の場所を借りて1938年にはじめた「文偉太極拳社」だといい、詳細はなお検証が必要かもしれない。
〇「貴陽的楊式太極拳」
〇「太極拳在貴陽的伝承脈絡」
〇貴陽に楊式太極拳を伝えた顧麗生
〇顧麗生の関門弟子・池慶生の太極拳の動画
〇顧麗生と池慶生
出典:杨氏太极拳贵州省支系概述_常慚愧居士--妙鹏_新浪博客
〇1947年8月の貴陽の擂台賽 (陳硯田口述 葛国文整理)
国術館副館長の顧汝章が総責任者(総擂主)、顧麗生は総審判(総裁判)を務めている。
沙国政が貴陽を再び訪れて、同じ太極拳でも「敬祝毛主席万寿無疆太極拳」や、「大航海靠舵手八卦掌」を教えるのは文化大革命の頃の話。
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沙国政武術館の紹介では1949年から、昆明の大板橋で武術を教えた(「1949年后在昆明大板桥教授武术」)と書いているけれど、墓誌銘では雲南に流れてきたあと、昆明の大板橋で農業に従事(「流离辗转来滇,居昆明大板桥务农」)とだけ書かれており、武術のことは触れられていない。1958年に雲南省武術隊で指導しはじめるまでは厳しい生活が続いたのかもしれない。
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今回、天津から昆明に到るまでの沙国政の動きを調べてみて、以前に王之和について調べたときにはわからなかった貴陽の擂台賽についての詳しい情報や、仁川における沙国政の活動などがわかったのは収穫だった。貴陽の擂台賽は1947年でほぼ間違いないだろう。まだまだ断片的ながら、探せばいろいろ面白い情報が見つかるものだと再び実感した。