中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

国家武術套路集訓隊

今年のCCTV春節聨歓晩会」の武術関連のプログラムは、先日、設立が発表されたばかりの「国家武術套路集訓隊」メンバーによる演武だった。

 

www.youtube.com

 

 

幹部を含む、「集訓隊」のメンバーは以下のとおり。

このメンバーの中から、9月の世界武術選手権大会の参加選手の選抜も行なうらしい。

 

首届国家武术套路集训队大名单

  领 队:张玉萍

  副领队:田苏辉 金肖冰

  教练组

  组 长:代林彬

  教练员:王二平 严平 李强 魏新换

  运动员

  男队(48人):

  队长:王地

  队员:于雷 马家军 王典 王子龙 王静申 史龙龙 刘钊赫 刘佳伟 刘忠鑫 刘念奇 刘德文 吕泰东 孙培原 庄冠松 朱雷明 汤海瑞 吴晓龙 吴照华 李振 李强 李付魁 李明杰 李剑鸣 李隆承 李敬德 杨亚霖 杨顺洪 陆如飞 陈洲理 周新建 栗志峰 钱康 钱晓乐 高春 高久尚 高浩楠 崔碧晖 常志昭 梁永达 鹿清华 麻骐韬 黄志坤 黄陈健 彭子运 甄海涛 鲍焕祥 谭金鹰

  女队(32人):

  队长:庄莹莹

  队员:于萌萌 王冰 王彭飞 叶朱倩 巨文馨 龙骄尔 刘悦 刘芳芳 刘津霞 汤露 邢玉婷 吴雪琴 张双凤 李奕萱 杜昊滢 陈磊 陈惠颖 周黎 郑少谊 胡钰莹 赵文文 赵兰兰 唐萱 海巍 钱乐芸 梁琪 褚优贝 阚文聪 戴丹丹 魏红 魏海玲

出典:中国武術協会

男女隊長の競技の動画

 〇男子の「隊長」王地

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

 

www.youtube.com

 

 〇女子の隊長 荘莹莹

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

 

「集訓隊」ということでは、1989年から1990年に北京体育学院に留学していたとき、90年の北京アジア大会の参加選手選考のための合宿が行なわれていて、そのメンバーも「集訓隊」と呼ばれていた気がする。今で言う国際第1套路の出場選手をきめるための選考現場などを見ることができて、とても貴重な経験だった。

 

今回、はじめての正式な「常態化」(注)した国家チームが編成されるに至る経緯については、楊祥全・楊向東『中華人民共和国武術史』の第6章あたりが参考になる。それによると、2002年の第14回アジア大会あたりから、套路競技・散打競技の双方で中国選手の絶対優位が崩れそうな傾向が見られ、関係者が国家チームの設立の必要性を訴えはじめている。

2005年11月、国家体育運動総局が2008年のオリンピックに備えて、2005年暮から2006年にかけて、冬季訓練を行なうよう各競技団体に指示し、それを受けて套路競技においては2006年1月10日から浙江省杭州で、散打競技においては同1月8日から陝西省西安で、選手を集めて訓練が開始された。このときの集訓隊も80日間の限定的なもので、国家の正式な編成とは呼べないようだけれど、雑誌『中華武術』などでは当時、「国家武術集訓隊」などの語を使って紹介されていたらしい。(上掲書PP179-181)

 その時点から考えても、10年以上たって、今回、漸く正式な国家チームの設立が認められたということか。

 

1月18日の成立大会では張玉萍副主任によって「体育総局武術中心の国家武術套路集訓隊成立に関する決定」なる文章が仰々しく読み上げられた模様。さらに張秋平主任は、諸君の一挙手一投足が国のイメージに繋がると、言動にも注意をするようにクギをさし、「祖国利益至上」なることばも使ったようで、各メディアに引用されている。

 

ちなみに、散打のナショナルチーム設立については、2011年の暮に一度メモしているけれど、当時の記事を検索して読み直してみると、2012年春に設立された散打の「国家隊」は体育運動総局の正式な批准は得ているものの、「国家隊」の正式な編成に入るものではなく、費用は武術運動管理中心が企業から調達しているらしい。

此次组建国家队经国家体育总局批准,是一支非编制的国家队,费用由武管中心自筹,组建国家队也得到西安当地企业的赞助。

中国散打国家队组建过程和训练情况__武术世界网---华夏国际武术联盟官方网

 

 对于散打国家队和以往集训之间的区别,高小军表示,“原来散打是以集训制为主,抽调一些可以承担比赛任务的运动员临时集训一段时间,主要是为了应对比赛,并不是真正意义上的国家队。这些运动员具备一定的实力,但是谁都可以参加这样的比赛。在今后,第一、比赛选手必须由国家队派出;第二、从国家队中择优参加比赛,将进行队内选拔,把真正有实力、表现好的运动员派出去。这样在队内也会形成一个竞争机制。同时,也是把这块市场管住,使出去参加比赛的选手,成为真正意义上的国家队运动员。所以国家队的队员必须经过层层筛选,经过国家武术运动管理局的注册、批准,进入他的管理程序,同时还要接受国家队的集训、考评,采用动态选拔。如果说选手的比赛成绩不适合国家队的情况,将会随时调整,让更合适、更能承担比赛任务的队员进入国家队。”

武术散打国家队在西安正式成立__武术世界网---华夏国际武术联盟官方网

 

散打の方の動きをフォローしていなかったので、これ以降の動きは改めて要確認。今回の套路競技のほうも、財源などについて言及がないので、どういうことになっているのかはよくわからない。

 

(注)「常態化」の語はこの記事から

 首支国家武术套路集训队在京成立

2017年01月18日 17:38:42 来源: 新华社
  新华社北京1月18日电(记者周欣)18日,国家武术套路集训队在北京成立,共有80名运动员和5名教练员。国家体育总局武术运动管理中心主任张秋平介绍说,以前经常会为了临时准备某一赛事或者活动而临时组建国家集训队,如今武术套路项目有了常态化的国家队。

  “武术是中华民族传统体育项目,具有强身健体、防身自卫、修身养性的功能价值。发挥武术的功能价值,服务大众,服务全民健身的国家战略,助力健康中国建设,是新形势下武术发展面临的新任务、新要求。成立一支国家武术套路集训队是我们多年的愿望。今天,理想终于成为现实!”张秋平说。

  张秋平指出,国家武术套路集训队将帅们要加强荣誉感、使命感,树立为国争光的决心与信念;要加强科学训练,引领武术套路发展的技术方向;要加强队伍管理,打造一支威武之师、文明之师。

  2017年将举行世界武术锦标赛等国际赛事,届时将从国家队中选拔运动员参赛。

http://news.xinhuanet.com/sports/2017-01/18/c_1120338730.htm

 

武當派武術の標準化

武當派武術の標準化套路編纂が進行中、という記事が流れてきた。

 

www.10yan.com

 

記事によると、プロジェクトは、湖北省武當山旅游経済特区の十大重点工程の一つとして2015年12月に専門のプロジェクトチームが組織され、武當拳、武當太乙拳、武當剣の標準化套路を編纂しようとしているらしい。

 

2016年12月までに、200名以上の伝承者と資料を検討して検討された、套路に含める技術内容の審査会は、国家武術研究院が招集し、陳国栄、張山、江百龍、劉鴻鴈、康戈武、門恵豊、呉彬、陳順安、王培錕らが参加。

 

下のリンクは、2016年6月の映像つきの報道。

「標準化しなければ産業に結び付けることができず、産業化できなければ国際化できない」という特区幹部のコメントが印象的。

v.wudang360.com

 

思い描いているようにうまく機能するのかわからないけれど、さてどんなものが出来上がるのだろう。

 

〇 武當山特区宣伝部のサイトにある動画集

v.wudang360.com

 

 〇2011年に亡くなった趙剣英の動画

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

過去メモのフォローアップ数件

いくつかフォローアップ系の小ネタ。

 

1.竇奉三・馬歩周『国術概論』

f:id:zigzagmax:20170109091045p:plain

 馬礼堂(馬歩周)が志然」名義で書いたような過激な議論が展開されているのかと思って読んでみたら、中身は至極まっとうに国術の価値や功能を論じたものだった。

若干、意表を突かれた気がしたのは、冒頭、国術の必要性を論じた部分。

筆頭に挙げられていたのは、国防でも、自衛でもなく、健身でもなく、「幸福」のため。

そうか、国術っていうのは幸福のためにあるんだな、と思ってなんだか深く心に刻まれた。

別の箇所で、国術と性欲の関係が論じられているのは(第六章)、嘉納治五郎の「精力善用」の影響?

  

f:id:zigzagmax:20170109091125p:plain

 

〇関連の過去記事

zigzagmax.hatenablog.com


2.孔子学院

2016年に全世界78か国240か所の孔子学院で中医太極拳等のコースを設けたという記事。

news.xinhuanet.com

 

〇アリゾナ大学孔子学院の例を紹介する記事

www.chinaqw.com

 

〇関連の過去記事 

孔子学院を通じた武術の普及は、段位制やオリンピック競技種目化とも絡んで引き続き注意しておきたい

zigzagmax.hatenablog.com

 

3.中国近代武士道理念の検討

 たまたま見つけた台湾大学の蔡振豊教授の論文。

 「中國近代武士道理念的檢討

 

この論文では梁啓超が試みた、日本の武士道的な理念による国民教育が実現できず、最終的には体育救国論のような形になってしまった理由として、中国においては日本のように文武両道の武士階級が育っておらず、日本の武士道論のように、その行動規範について語られる伝統がなかったことや、現世快楽主義の楊朱思想の影響を挙げている。最後、結論部分からの引用。

 

對照上述所言產生日本武士道的文化資源,則可知中國多不具備類似
的文化條件。中國不但沒有文武兼備的武士階級,也缺乏由武人相互自律
所形成的規範傳統,更何況又有戀生享樂的楊朱思想為其底層文化。無怪
乎梁啟超橫移日本的武士道,在中國最後僅形成「體育強種」及「恢復尚
武天性以競爭於列強」之論說而已,不能真正達成改造國民性格的目的。

 

ちなみにこの論文とは全然関係ないけれど、四川省で唯一の状元で、清末に日本に留学した駱成驤は、1920年代に四川省で「四川武士会」や伝統弓術の団体である「射徳会」を支援していたらしい。

彼が四川武士会を支援した経緯としては、ドイツから帰国した息子が、ドイツでは「東洋柔術」を専門的に研究習得していると聞いてのことらしいけれど、柔術という言い方といい、武士会という命名といい、彼自身の日本への留学の影響も感じられる部分もあるので(ただの印象)、今後、この辺も頭の片隅において機会があれば調べてみたい。

 

百度の「駱成驤」の記事から

1920年,骆成骧之子骆凤麟从德国留学回来,谈到德国有人专门研习东方柔术。骆成骧深受启发,他想到世界列强纷纷入侵,恣意瓜分中国,要保家卫国,“监阵肉搏之术,不得不讲”,于是有意倡导武术。适逢成都有一个武士会,每年比赛拳足,但时有事端。为振兴武士会,骆成骧被该会推举为会长,他还将自己为别人作碑文的上千元酬金全部捐赠武士会。之后,他亲自出面募集资金,建国术馆于成都少城公园(今人民公园)。四川各地的武士闻风而动,学习柔术,比赛拳足,盛极一时。骆成骧也勤习柔术,还喜欢射箭,并讲授射箭法。他常说:“射以观德,不仅止于御敌强身也。”为此,他创立了“射德会”。

http://baike.baidu.com/view/235323.htm

 

baike.baidu.com

 

〇関連の過去記事

zigzagmax.hatenablog.com

 

4.国際武術連合会による国際功夫聨合会の封殺

昨年この件について報道した安徽太極拳網が、今年になって、国際功夫連合会に不利な報道をしてその名誉を傷つけたのは申し訳なかった、という公開詫び状を掲載した。

でも、国際武術連合会の決定は中国武術協会も支持しているわけだから、安徽太極拳網は中国武術協会の決定に従わないことにした(公然と反旗を翻した)ことにならないのかな??中国武術協会の次の出方は如何に。

 

《向国际功夫联合会的公开致歉信》 - 安徽太极拳

 

www.qqgfw.com

 

〇武術運動管理中心の前主任・高小軍も、最近、国際功夫連合会の傅彪らと会談を行っている模様。現役の主任でなければお咎めはないのかな?

www.qqgfw.com

 

 〇関連の過去記事

zigzagmax.hatenablog.com

 

 5.武術進学園

 学校体育への武術導入、学童への武術普及について、面白いと思った記事

 

www.wzrb.com.cn

 

www.chinanews.com

 

 

 

 


 

 

 

 

新編武舞「蝶恋花」

楊祥全・楊向東編著『中華人民協和国武術史』の文化大革命の頃の武術の箇所を読んでいて、「「様板武術」の創編活動」のところで紹介されている「蝶恋花」という武舞について、動画がないかと思って検索してみたら、いくつかの動画がヒットした。

 

楊祥全・楊向東編著『中華人民協和国武術史』

 

f:id:zigzagmax:20170101150418p:plain

 

www.youtube.com

 

「蝶恋花」とは、同書の説明によると、1966年4月、北京体育学院武術教研室が毛沢東の詩詞「蝶恋花」に基づいて編集したもので、この中には現代京劇(様板戯)「紅灯記」中の李玉和の見得を切る動作(亮相)、「沙家浜」の新四軍の造型が取り入れられ、歌いながら練習することができるようになっているという(P.56)。

 

「紅灯記」の李玉和

f:id:zigzagmax:20170101112505p:plain

 

以前から興味のある、文化大革命時代の「語録拳」については、まだ動画を見つけられていないけれど、この「蝶恋花」も毛沢東礼賛という意味では共通しているし、そういう意味で参考になるかもしれない。

 

上のyoutubeの動画は、少し太極拳風にアレンジされているようだけれど、もともとは跳躍なども含まれている模様。より原型に近いと思われる動画が「土豆」に出ている。

動画はいくつかに分かれおり、最初の部分に、創編に加わった老師(曽乃梁?)による解説と、動作名称の紹介がある。

 

〇よりオリジナルに近い?蝶恋花の全套演示

蝶恋花拳02(全套正面示范)_土豆_高清视频在线观看

 

この動画をもとに、詩詞と動作の対応をメモしておく。

 

第一段

我失驕楊

 左弓歩推掌 高虚歩亮掌

君失柳

 上左歩 左穿掌 左提膝亮掌

揚柳軽揚(飏)

 左転体上雲掌 左按掌 左提膝上穿掌

直上重

 仆歩穿掌 撃歩右拍脚 歇歩亮掌

問訊呉剛

 上左歩左撣右推掌 右扣脚抱拳礼

何所有

 右雲手 抱球 斜飛勢

呉剛捧出

 左活歩 双捧手 劃大弧

桂花酒

 左撇脚 右里合腿 探海平衡

 

第二段

寂寞嫦娥

 左落脚右捋 上左歩左捋 上右歩右捋

舒広袖

 上歩左右撣掌 後挙腿架推掌

万里長空

 双擺掌左翻腰

且為忠魂舞

 右翻腰叉歩右貫拳 退歩跨虎

忽報人間

 撃歩推穿掌

曽伏虎

 騰空(或不騰空)外擺蓮右弓歩打虎勢(架栽拳)

泪飛頬作

 左雲 右雲手 右震脚左提膝亮掌(孫式)

傾盆雨

 退歩穿 双按 高虚歩按掌

 

〇蝶恋花についての解説 

新编武舞-蝶恋花01(内容介绍)_土豆_高清视频在线观看

 

歌詞を口ずさみながら練習することができるという点は、中央国術館時代の「満江紅」とも趣向がよく似ている。ちなみに、上掲の『中華人民共和国武術史』によると、中央国術館の解散後も、国家主席劉少奇が北京体育学院の『満江紅』が見たいと要求した(P.32)とか、文化大革命の頃も、愛国精神に基づくとされた『満江紅』の練習はお咎めを受けなかったようで、これを隠れ蓑にして武術の練習を継続したかの記述がある(注)。それが「語録拳」の創編に繋がってゆくようだけれど…このあたり、もう少し詳しく知りたい。

 

〇満江紅ついての以前のメモ

zigzagmax.hatenablog.com

 

zigzagmax.hatenablog.com

 

 

なお、時局にあわせた武舞ということでは、1950年、朝鮮戦争当時にも、当時流行していた『志願軍戦歌』にあわせた武舞が作られ、天津市で開催された抗美援朝武術表演和摔跤比賽で披露されたらしい。

具体的には歌詞と動作の対応は以下のとおりらしい(上掲書 P.27)。

 

 雄赳赳気昴昴 跨過鴨緑

  上歩対拳提膝亮掌 接大跳歩前穿 接左弓歩衝右拳  

 保和平為祖国 就是保家郷

  并歩站立  左抱拳右接拳屈臂胸前挙 接右跨歩向右後跳転 架衝拳

 中国好児女 斉心団結緊

  先前左右閃打

 抗美援朝打敗美国野心狼

  震脚双推掌 接右後転身打虎式

 

 

 

baike.baidu.com

 

武术要从“四旧”中走出来,适应形势发展的需要,为工农兵服务,就必须彻底地改革。为此武术教研室的老师们灵机一动,打着岳飞抗金的旗号开始传授《满江红》。这一“革命行动”果然奏效,院领导对此大加称赞。沿着这个思路,武术教研室的教师又以武术动作为元素创编了好几套语录拳。 P.56

 

「中国蟷螂拳発源地」

全球功夫網の、陝西省淳化県の官荘中学で蟷螂拳が全面的に取り入れられることになったという記事を読んでいたら、「中国蟷螂拳発源地」という文字がでてきたので、どういうことなのかと思ったら、淳化県では、蟷螂拳の創始者といわれている王郎(王文成)は淳化の人だという理解に立ち、2013年5月に武術協会を立ち上げ、郷土の先人が作った蟷螂拳の普及によって全国の武術の里(武術之郷)の認定を得ようと活動をはじめているようだ。

 

◎全球功夫網の記事

www.qqgfw.com

 

◎同じく全球功夫網の2014年の記事。経緯が少し詳しく紹介されている

www.qqgfw.com

 

 

具体的な取り組みとしては、江蘇省連雲港市の梅花蟷螂拳家で、張柄斗に学んだ孫来のところに関係者を派遣して技術を習得させ、そこで学んだ技をもとに県内の学校関係者向けに研修会を開き、学校教育への導入をはかっているようで、今回の官荘中学における導入は、2013年以来続いているその取り組みの一環らしい。

 

淳化県政府のウェブサイトによると、王郎の奥さんは淳化県の県令で山東から赴任してきた莱陽の人・趙珠の妹。妹の縁で王郎から蟷螂拳を伝授された趙珠が任期を終えて山東に戻り、彼の地で蟷螂拳を広めたものの、淳化での伝承は王郎で途絶えてしまったのだという。

趙珠の弟子に同じく莱陽の李秉霄がいるという。李秉霄以降の流れは、比較的記録が残っているといえる。

 

◎淳化県のウェブサイト 書き振りは、上にあげた全球功夫網の2014年の記事とよく似ている

淳化文化 - 中国·淳化- 淳化县门户网站

 

 

・・・しかし、この説、はたしてどれだけ支持を受けているんだろう。

中国武術人名辞典』の王朗の項では、「伝説では・・・」という前置きつきながら、「王郎は明末清初の山東即墨の人」、となっていて、「王文成」という名前も出てこない。

 

『中華武蔵』シリーズの「太極蟷螂拳 乱截拳」の解説の冒頭部分を文字で起こしてみると以下のとおりで、王郎は明末の農民反乱のリーダー・于七と同一人物とされており、山東省栖霞県唐家泊村の人との説がとられている。

 

太极螳螂拳是明末山东栖霞县唐家泊村农民起义军领袖于七(即王)所创

由王亲传弟子升霄道人杨衍锋承之及集其大成。并著有《少林衣钵真传・罗汉短打密钥》行世、将原属于少林范畴的武学归并为内外兼修刚柔相济的王朗螳螂短打法派。经升霄道人亲传李秉霄,李秉霄开宗明义后在莱阳正宗嫡系一脉九代单传密授至今。据碑石和典籍所载莱阳的李秉霄,赵珠,梁学香,姜化龙,宋子德,崔寿山,徐凤岐,孙德,孙志斌为太极螳螂拳宗嫡系一脉的九代衣钵传承人・・・

 

www.youtube.com

 

比較的出版時期が最近の、王開文『斉魯武術』は、意外にも、「王郎」の名前すら出てこず、(梅花)蟷螂拳の「首伝者」は李秉霄で、(淳化県や全球功夫網の説明とは逆に)李秉霄が趙珠に拳を伝えたことになっている。これは、「莱陽県志」の記載に基づくものと思われるけれど、この点について、百度百科の梅花蟷螂拳の説明では、1933年に既存の「莱来県志」の続きが整理された際に、蟷螂拳の伝承に関し、本来は莱陽県国術館館長の李昆山に取材したかったものの、李が青島に行ってしまっていたので、しかなく弟子の李淑栽に取材したところ、李淑栽が誤って趙珠と李秉霄の関係を逆に伝えてしまったのだという。この説の真偽のほどはよくわからない。

なお、同書には于七が率いた農民反乱についても紹介されているけれど、『中華武蔵』のような、王朗との関係についての考察は無い。

 

〇王開文『斉魯武術』

 王開文は煙台大学副教授。蟷螂拳について紹介下部分では、王郎についての記述は無い。附属DVDでは、程顕明の梅花蟷螂拳・乱接拳、于天路の七星蟷螂拳・崩歩拳、趙永昌の孫臏拳・三十二手(過手架)、徐国貞の四路査拳を収録。

f:id:zigzagmax:20170101084411j:plain

 

 

結局、王郎について、山東即墨説、山東栖霞県説、陝西淳化説が並んでしまった。どれもこれといった史料が示されておらず、憶測の域を出ないということでは、『斉魯武術』が王郎について触れていないのは一つの見識かもしれない。

 王郎の出自については、頭の片隅に置いておくことにしよう。

 

 

〇李昆山についての紹介記事 

上に名前のでてきた張丙斗は李昆山の外孫にあたるらしい 王玉山崔寿山とならぶ「莱陽三山」の一人。

www.taidongzhen.com

〇徐紀「山東第一槍 李昆山」

vipcard.cnki.net

 

ちなみに、連雲港市蟷螂拳協会で検索すると会長は七星蟷螂拳の「楊新海」という名前がヒットする(ただし、2012年の記事)。「孫来」という名前も出てくるけれど、この人は、張柄斗に太極梅花蟷螂拳を学び、のち馮志強の入室弟子の張志俊に拝師した太極拳の人らしい。記事によって、孫来氏が、「連雲港市梅花蟷螂拳研究会会長」(全球功夫網の2014年の記事)だったり、「連雲港市蟷螂拳協会会長」(淳化県の記事)だったり、不正確なままの引用が多い気がする。

 

◎連雲港市蟷螂拳協会と楊新海会長についての記事

blog.sina.com.cn

 

◎連雲港太極拳協会常務副主席、連雲港市太極拳推広中心主任、連雲区太極拳協会会長の孫来氏

连云港太极拳协会会长孙来 国庆义务传授混元太极拳 ——中国武术在线 武林动态

 

 

 

 

張山の語る中華人民共和国の武術

北京体育学院の武術系を卒業し1965年に国家体育運動委員会の武術処に配属された張山の『武林春秋』は2012年に人民体育出版社から出版されている。

zigzagmax.hatenablog.com

 

600ページにも及ぶ大著のようで、とても興味があるのだけれど、いまだ入手する機会がない。そのかわり、最近、周亮という人の個人ブログに、「張山先生口述:武林春秋」という内容が10回にわたって掲載されているのを見つけた。

この「口述」はどこかの雑誌か何かに掲載されたものなのか、あるいは書籍からの引用なのか等、周亮という人がどういう人なのか、いずれもよくわからないけれど、興味深い内容が多かったので、メモ。

 

f:id:zigzagmax:20161225221007p:plain

 〇『武林春秋』の表紙 人民体育出版社のウェブサイトより

 

人民体育出版社,人民体育出版社网站,网上图书,体育教程,特价书,书籍,人民体育出版社官方网站

 

 

blog.sina.com.cn

 

 〇張山は新中国成立後、国家体委武術処はじめての大卒採用者ということになるらしい。

 

 1965年3月18日,由班主任毛伯瑜和同学杨有为介绍,我加入了中国共产党。这年,北京体育学院毕业生中有3人分配到国家体委工作,我分到体委武术处,也是新中国成立后第一个来武术处工作的大学毕业生。我在这里开始了自己的事业。

 

 

blog.sina.com.cn

 

〇やがて文化大革命がはじまり、国家体委の中でも、それまで上司であった人たちをいきなり糾弾しなければならなくなったことへの迷いが示されている。

特に引用はしないけれど、国家体委の中で、張山本人は実権派からも文革派からも距離をとっており、双方の話がきけるようなスタンスだったようだ。

 

 1966年5月,结束“四清”工作回到北京。这时,使中国蒙受灾难的“文化大革命”开始了,社会秩序发生了巨大混乱。和所有地方一样,在国家体委工作的人们,也在“文革”中分成两派——“革命派”和“保皇派”,国家体委司以上的官员,是批斗或争夺的对象。面对红色浪潮,我心里充满了矛盾。一方面要追随领袖毛主席干革命;另一方面,又百思不得其解:体委的领导人昨天还在做报告,怎么今天都变成了“走资本主义的当权派”?

我毕竟是初到国家体委工作的年轻人,只得多听、多看、少说。经常帮助抄写大字报,尽力跟上政治运动形式。

 

〇1972年、山西省の農村での労働を経て国家体委に戻ってきたところで、古井喜実らの受け入れを担当したことについての回想も。

 

 我刚回到体委武术处,就遇到一件难忘的事。1972年4-5月间,中央办公厅发函给国家体委,通报日本友好人士古井喜实要来中国学习太极拳,请国家体委派人教授。
当时,“阶级斗争”的弦,还绷得很紧,要去接近外国人,甚至还要教他们打太极拳,我有一种奇怪的感觉。我和李天骥前往古井喜实下榻的北京饭店,在七楼顶上的平台进行练习。原来,正是周恩来总理在60年代初,一次会见古井喜实的时候,向他推荐了中国的太极拳。古井喜实成为太极拳的爱好者,后来对日本民众练习太极拳起到了积极的推动作用。

 

blog.sina.com.cn

 

〇米中国交正常化が中国武術に与えた影響についての記述は興味深い。

ニクソンとともに北京を訪問したキッシンジャーは北京体育学院で武術の演武を見ているようで、そのことが武術代表団の訪米に繋がる。

ホワイトハウスのローズガーデンで最年少の団員であるジェット・リーが崔亜輝と対練をやっている映像は有名。

 

 1972年初,随着第一位美国总统的来访,冰封了25年的中美关系解冻。然而令人们意想不到的是,这也给中国武术带来了盎然春意。

 

 2月底的一天,基辛格博士由江青和国家体委副主任李青川等陪同,参观北京体育学院,并观看了国家体操队和武术青训队的表演。武术青训队当时只有12人,由夏柏华、门惠丰两位教练负责安排组织。
坐在主席台上的基辛格博士被武术表演惊呆了,他竖起大拇指,赞不绝口:“真好!我从未见过,这叫什么项目?”李青川介绍:“这是中国武术,有着几千年的历史。作为一种优秀的传统文化,是中华民族在长期生活和斗争实践中,逐步积累和发展起来的,即可强身健体,防身自卫,又可修心养性,自娱娱人,深受广大民众的喜爱。”
基辛格当面正式向周恩来总理提出,邀请中国武术团访美。周总理给予了肯定答复,要外交部、文化部和国家体委共同负责此事。
基辛格不经意间给中国武术帮了一个大忙。

 

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

 

文革の開始以降中止されていた武術競技は1972年5月に安徽省合肥市で交流(観摩)的性格の大会が開かれ、13省から選手が参加。同年11月には山東省済南市で全国武術表演大会が開催される。この二つの賽事のあと、専門家が集まって武術競技のあり方、武術競技における「難度」について討論が行われたらしい。武術固有の「手法、眼法、身法、歩法」こそが難度であるという人たちと、劈叉や回転・跳躍技(翻騰)などの身体能力・技巧が「難度」であるという人たちで意見が分かれたものの、後者が大勢を占めたらしい。このあたりの議論のポイントは興味深く、もう少し詳しく知りたいところ。

 

 在这两次带有观摩性质的比赛中,裁判员使用的是“文革”前制定的《竞赛规则》。有人觉得应该修改规则,以适应武术的发展需要。为此在11月大会结束后,留下了一些专家、教练讨论,其中有马贤达、邵善康、王常凯、黄伟鑫、张山等。大家讨论的结果是,除对规则有关条款进行修改补充外,还想增加“动作创新加分的内容”。但在武术演练中,什么是“创新”?哪些是“难度”?由于认识不一致,展开争论。一方认为,武术独有的“手、眼、身法、步”是难度。另一方认为,体能和技巧是难度,比如劈叉、翻腾等。讨论到最后,体能和技巧难度的观点逐渐占了上风。 

 

blog.sina.com.cn

 

 

〇記述が少しいったり来たりしているけれど、米国公演参加者は以下の引用の中に見える。メンバーやプログラムは「文革中央小組」による審査も必要だったよう。

 メンバーは錚々たる顔ぶれ。

 

  在当时“文化大革命”的背景下,代表国家出外表演,不仅能给自己和家庭带来荣耀,更意味着历史清白、政治合格,这对个人是一次非常好的机会,所以大家训练都很刻苦。
历经6个月的集训,多次选拔之后,最终留下35人,可以说聚汇了当时武术界的精英,个个身手非凡。
随着出访日期临近,经过上级领导多次的审查,总共确定50多个比较精彩的表演项目,其中单人有:张玲妹的五路查拳、陈道云的飞鸿剑、于海的螳螂拳、任继华的通臂拳、高西安翻子拳、牛怀禄的形意拳、莫少能的南拳、李连杰的单刀、王金宝的银龙棍、邱方俭的九节鞭、王常凯的长穗双剑、白彦侠的双钩等。对练有:王金宝和韩明南的对打、韩明南和任继华的对擒拿、周涛和李启明的单刀进枪、于海和邱方俭的朴刀进枪、张福云和何伟琪的叉子进枪、刘学志和郭省聚的夺匕首、李连杰和崔亚辉及吕燕的三人对棍和空手进双枪。集体项目有:女子集体二十四式太极拳、男子集体刀术、男女集体剑舞等。
1974年3月下旬,“中央文革小组”的某位领导审查节目后说:“节目内容很好,现在就出国,一定受欢迎。”

 

blog.sina.com.cn

 

〇1978年9月、北京市東城区武術協会の李光、呉図南、劉世明、馬有清が鄧小平に手紙を書き、文革中の名誉回復を訴え、鄧小平は10月3日、国家体委に検討を指示。

1978年当時、文革中の名誉棄損により生活上の困難を抱えていた老拳師は北京に約15名いたという。具体的な名前や、生活状況は記されていない。

 

 1978年9月,北京市东城区武协李光、吴图南、刘世明、马有清致信邓小平副主席,指出“文革”中武术受到破坏,武术界人士被污蔑为“牛鬼蛇神”,遭受了不公平待遇。要求平反冤假错案,发还“抄家”物品。建议着手对北京市武术界进行清查、整顿,增设群众性武术活动园地,成立武术运动的专门科研机构。邓小平于1978年10月3日,在国务院信访办上报的此件摘报上批示:转国家体委研究。在这段时期,邓小平对于中国武术给与了相当多的关注。

 

1978年底,我收到老武术家吴图南的一封信,反映说,“文革”期间他被抄家,抄去的东西至今不知下落,他的家也被强占,至今处境极为窘迫。看到这封信,我和赵双进同志一起去寻访老人。当时他住在西直门外的城郊结合部,环境杂乱。对于我们的探望,吴图南老人感到高兴。事后,我们将此事转到北京市体委群体处,商情他们帮助吴图南解决遇到的困难,使老先生的境遇有了明显改善。
尽管“文革”已经结束,但对武术的偏见,在部分人心目中仍在继续,认为武术就是“看家护院”、“保镖卖艺”的。天津知名拳师郝家俊,1965年被强令退休,致使他后来生活困难。北京杨禹廷1978年已经93岁,到公园练拳、教拳,居然被赶了出来。当时,北京约有15名老拳师在不同程度上存在着生活困难。

 

〇武術に対する社会の偏見をなくしつつ、保護をすすめるために1979年の正月に

《对当前武术运动中存在的问题及今后意见的调查报告》なる報告書を完成させたのだという。この報告書の中身をみられないかなあ・・・。

 

 武术处走访各地,召集众多老拳师举行座谈会,集思广益。在此基础上,我于1979年元旦,完成了一份《对当前武术运动中存在的问题及今后意见的调查报告》,内容涉及到诸多方面,主要是:1、为武术运动正名;2、要抢救武术遗产,开展挖掘整理工作;3、对武术运动的多种形式要充实、提高,既要完善和发展套路,也要对散手技击开展试验。
调查报告指出,“文革”中,武术比赛停止;武术运动队解散;群众练拳被当成非法聚会遭到禁止;武术器械被看做武斗工具强令收缴。而现在应该推倒强加在武术上的一切不实之词,摆正武术地位,解放思想,团结起来,为健康地发展我国武术事业做出贡献。

 

blog.sina.com.cn

 

文革後、民間武術の保護の一環としてスタートした1979年5月の観摩交流大会は、建国当初・1953年の全国民族形式体育表演及競技大会以来の大規模な行事となった。

西安の中学校で体育教師をしていた陳立清は参加を訴えるも、年齢と、目が悪いことを理由にメンバーに選ばれず。それでも諦めずに、1カ月分の給料を前借りし、自転車も売って旅費に換え、春秋大刀と食料を用意して、硬座で南寧に向かい、参加を直訴したのだという。このあたりの経緯は泣ける。

 

 1979年5月10-16日,国家体委在广西南宁市,举行了首次全国武术观摩交流大会,希望对民间传统武术进行一次展示和普查。这是在1953年天津举行全国民族形式体育表演及竞技大会以来,规模最大的一次传统武术盛会,对日后进行传统武术的挖掘整理,有着深远的影响。
我来到南宁,首先遇到一位自费从陕西赶来的老太太坚持要求上场做表演。她叫陈立清,是河南陈氏太极拳传人,自幼习武,后在西安一所中学任体育教师。她听说陕西在为武术观摩交流大会进行选拔,便兴冲冲前去报名。
但是组织者考虑到她年纪大了,眼睛又不太好,权衡再三,没有选上。陈立清不甘心,想到自己一辈子练武术,如今赶上这么好的机会,不忍放弃,就下决心赶到现场去,争取一个表演的机会。为了筹集路费,老人向学校预支了一个月工资,还不够,一狠心,又变卖了唯一的交通工具自行车,然后带上心爱的春秋大刀上路了。她买的是火车的硬座票,自己带干粮,风尘仆仆赶到南宁会场。
因为运动员都是集体报名,没有个人参赛的先例,大会竞赛处表示无能为力。陕西队领队刘侠僧得知后,找到陈立清,劝她回去,不要给大会增加麻烦。但是陈立清态度非常坚决。当她发现老熟人河南籍的裁判员孙文臣时,伤心地哭了,流泪诉说自己费尽周折的事情。
孙文臣很同情她,因为我和孙文臣是北京体院同学,他找到我,介绍陈立清的情况,我得知这件事,为慎重起见,约见了陈立清。老人对武术的执著使我深受感动,和其他同志再三研究,决定特批老人参加大会表演,还安排了她的食宿。陈立清如愿以偿,在大会上展示了最拿手的项目——陈式太极拳老架和春秋大刀,受到观众的热烈欢迎,评上一个特别奖。
以后,陈立清只要到北京来,总要专门到运动司来看我。提起南宁的事,她依然激动不已。1985年2月,陈立清随中国武术代表团访问日本,参加了“中日亲善演武大会”。回国后,更激发了老人对弘扬武术的热情。

 

 

blog.sina.com.cn

www.youtube.com

 

 

www.youtube.com

 

文革後の武術競技も、必ずしも順風満帆に再開された訳ではなかったらしい。

とりわけ、オリンピックの競技種目でないことにより、直近(1983年)の全国運動会の競技種目として認められず、表演だけが認められ、関係者の意気消沈が懸念される事態に。

頓智比べのような話だけれど、そこで「表演」の字の後ろに「賽」の字を(勝手に?)加え、金・銀・銅メダルおよび6位までに入賞者を決め、競技種目も伝統拳、伝統器械の種目を増やすなどの運用によって、各地の競技武術関係者の意欲が損なわれないような工夫をしたのだという。のちに、温敬銘が、この「賽」の字を加える措置を良いアイデアであったと言ったとか言わないとか。

 

 1978年全国体育工作会议上决定,下一届全运会(1983年)不设立武术比赛项目,只作为表演。主要原因是,武术非奥运会项目。
消息一出,犹如一石激起千层浪。没有了赛事,各省市武术专业队面临解散的状态,各大院校的武术专业设施、师资和培养方向,也在张望。基层武术工作者,纷纷发表不同意见,认为此举会严重冲击各省市区武术项目的开展,给正在蓬勃发展的武术事业带来负面影响。大家都向我反映情况,希望向领导汇报下面的情况,恢复武术赛事。

 

1980年4月中旬,全国武术座谈会在北京如期召开

 (略)

座谈会结束,我反复琢磨领导的讲话,大胆的在1980-1983年全国性武术表演规程中,在“表演”后面加了个“赛”字,照样设金、银、铜牌,录取前六名,为把表演赛搞好,在规程中增加了传统三类和传统器械三类的新项目,这样为选手拓展了新的发展空间。后来,温敬铭老师经常讲:“张山同志在全国武术表演后加一个赛字,提升了大会质量,巩固了优秀运动的建制,真是个好主意。”

 

1980年前后,武术比赛一时不作为全国运动会的正式比赛项目,使一些武术运动基础薄弱的省区市,对于是否保留武术专业队产生了怀疑。体委武术处的工作人员也为武术的明天产生了几丝忧虑。谁知道,事情在一定情况下,是可以向不同方向逆转的。当时武术运动员的比赛少了,出现了较多的训练间隙,武打电影却趁势而起,从另一个方面极大推动了武术的普及和推广。

 

〇80年代のはじめ、全国運動会の競技種目には採用されず、国内競技の機会が少なかったことが、逆に競技武術選手の、映画撮影への全面的な協力などを容易にし、それが『塞外奪宝』や『少林寺』、『神秘的大仏』、『武林志』などにつながっていったのは、災い転じて福となすといったところだったのか。引用はしていないけれど、このあたりの回想もとても興味深い。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

〇8は発掘整理についての内容。やや自画自賛的なところがあり、この部分はやや物足りない気も。

blog.sina.com.cn

 

〇9.は等級制度、段位制。段位制の評価も、これからと言うべきだろう。 

blog.sina.com.cn

 

〇10.は国際化について

blog.sina.com.cn

緊那羅王はどこにいった

何度かメモしているけれど、少林武術が信仰の対象にしている「緊那羅」王、もともとは音楽神であり、本来、武神であるべきは似た名前の「那羅延」であるという説がある。(那羅延は那羅延執剛神ともいわれ、阿形、つまりは仁王様の一方。)

 

zigzagmax.hatenablog.com

 

明代に少林寺で学んだ程冲斗の「少林棍法闡宗」に「緊那羅王之聖傳」という語が見えるので、その頃には武神として信仰されていたことが窺えるとして(注1)、少林寺の外では、「緊那羅王」という神格はどれだけ浸透していたのだろうか。

 

たとえば、調べものをしていてたまたま見つけた羅疃・李大忠の「行者棍」の伝書では、「緊那羅王」にかわる語として、「急拿羅網」の語が見える。

 

f:id:zigzagmax:20120116220601j:plain

◎出典:http://photo.blog.sina.com.cn/list/blogpic.php?pid=851631d8hbdf555ac7b34&bid=851631d801012f98&uid=2232824280

 

また、百度百科の胡氏戳脚の紹介によると
胡奉三に由来する胡氏戳脚の器械歌訣の中に、「緊拿羅纲」という語がある(注2)。

この歌訣の実物の写真はサイトには載っていないけれど、ここで「纲」とあるのも、「綱」ではなくて「網」のような気がする。

 

だとすれば、それぞれ
「急拿羅纲」
羅網を急ぎ握って・・・

「緊拿羅纲」
羅網をきつく握って・・・

 

という意味に読めそうで、この訣語を暗記したり、書き写した人が、どこまで「緊拿羅王」を意識していたのか、にわかに判別できない。

 

ちなみに、「羅網」というのは

1 鳥を捕らえるあみ。
2 浄土や天界にあるとされる、宝珠を連ねた網。また、仏殿や仏像を飾る荘厳具。

とのこと。

後悔は先にたたないことの喩えで、「羅網の鳥は高く飛ばざるを恨み呑鉤の魚は飢えを忍ばざるを嘆く」という言葉もあるらしい。

dictionary.goo.ne.jp

 

棍棒の歌訣の中にいきなり網の話がでてくるのは不自然かもしれないけれど、
「一網打尽」という語もあるから(出典は『宋史』「范純仁伝」 らしい)、仏敵を一気に蹴散らすことの比喩と理解されたとしても不思議ではない。少なくとも、本来あるべき「緊那羅王」が消えてしまっているのは確か。

 

まあ、そもそも「少林」が「邵陵」と表記されたりするくらいなので、そのような変化が生じたとしてもおかしくはない。もしかすると意図的に隠しているのかもれない。

 

----------

「少林」が「邵陵」に・・・ということで思い出して、唐豪の『中国武芸図籍考』を見てみたら、そのあたりのことはちゃんと考察されていて、陳家溝の「盤羅棒訣語」に

「古刹登出少林寺、堂上又有五百僧

 百萬紅軍滅佛教、悖羅在地顕神通

 要知此棒出何、盤羅留傅在邵陵」 

とあるのを引いて、「登出」は「登封」、「邵陵」は「少林」「盤羅」は「那羅」、「悖羅」は「盤羅」、の訛化であろうと述べつつ、陳溝もまた少林棍を学んだのだろうと記している。(ただし、盤羅棍の勢法で少林棍と共通しているのは、朝天、担山、地蛇、跨剣の四勢だけらしい。山西科学技術出版社版PP.146-147)

 

ちなみに、これに該当するもので徐震の『太極拳考信録』に採録しているものに「盤羅棒訣語」があり、

棒遮雲頭世間稀、勢勢安排要怜悧

古刹登出少林寺、堂上又有五百僧

百萬紅軍滅佛教、悖羅在地顕神通  

後辺撒手丟神棒、夜叉探海取人心

偸脚進歩誰不怕、棒起空霊多変化

九宮八卦破天門、老祖留下六六勢

三十六勢在中間、前有嵩山後有御塞

佛手賽過紅光玉、敢杜紅軍百萬兵

要知此棒出何處、盤羅留傅在邵陵

 

と記している。(山西科学技術出版社版 PP.76-77)

  

これを見ると、羅疃の行者棒で「紅君」、胡氏戳脚の譜で「千軍」とあるのは、もともとは「紅軍」だったのだろうと推測される。

緊那羅」とその訛化をキーワードにして、少林武術と陳家溝の武術、さらには八極拳から戳脚まで共通点する内容が見えてきた気がする。

 

--------

 

いちおう、こういった観点から『中国武術拳械録』の棍術をざっと確認してみた。概要は以下のとおり。「金剛」、「行者」といった語はいくつか見られれたものの、もともと歌訣の類はあまり載っておらず、あまり有益な示唆は得られず、「緊那羅」らしきものの姿は確認できなかった。この作業はやや徒労に終わってしまった気がするけれど、神様はそう簡単には顕現しないのかな(苦笑)

 

八極拳の項には、行者棒の動作名称はあるものの、歌訣の記載は無し

・三皇炮捶の項には、行者棍の歌訣が載っているものの、それらしき語句は見当たらず(P.92)

・太祖拳の項には、太祖棍の棍譜があり、「行者南海拝観音」の語があるものの、それらしき語はみられず

少林拳の項には、梢子棍、風火棍、小梅花棍、小夜叉棍、大夜叉棍、兪家少林棍、陰手棍、少林短棍、六合風里夜叉棍、焼火棍、六合陰手棍、猴棍、猿猴棒の動作名称が紹介されているが、歌訣の記載は無し

 陰手棍(13)羅王観陣(76)羅王踏山

 少林短棍(1)金剛護門

 六合風里夜叉棍(32)が打風撹王

・功力拳の項には行者棒の動作名称が載っているものの、それらしき語句は見当たらず

・四季拳の項には、四季棍の動作名称があり、そのなかに

  一路(7)刀(力?)劈金剛 (P.257) がある。

・白眉拳の項には、大陣棍(双夹単棍)の動作名称が載っており、そのなかに

  (27)(47)金剛掃地 (P.265)

・紅拳の項には火火条子の動作名称が載っておりそのなかに(17)夜叉棍がある(P.316)

形意拳の項 五郎棍の棍譜に「行者棒打遍天下」の語がある (P.345)

泉州少林花拳の項 金剛棒(第一套)の動作名称が紹介されているが(P.499)、それらしき語句は見当たらず

・梅山拳の斉眉棍の歌訣に「大聖劈棍除妖王」の語がある(P.546)

猴拳の項には行者棒の歌譜があるものの、それらしき語は見当たらず

・福建羅漢拳の項の子母棍の動作名称中(39)行者授棍がある(P.573)

 

注1
緊那羅王之聖傳」の語は「総論」に見える。その他、「緊那羅王」の語は複数の箇所に見られる。

注2

全文は以下のとおり。冒頭の句が行者棒と同じであるほか、ほかにも共通点が多く、それはそれで興味深い。

器械歌决
开山神棒最为强,武祖造法人难防。
猿猴献果灵芝草,降魔宝杵压疆场。
童子献棒神鬼怕,击刺善用膝登枪。
堰月大刀擎当面,劈山钢斧露锋芒。
猪龙拱地甚骁勇,哪吒神棒落难当。
急转身来金刚樽,飞前式样自争长。
沧海计逢山开路,黄宝盖转打六阳。
陡回身迎风立式,退千军紧拿罗纲。
孙行者指空望月,逼水珠少林名扬。
老僧铲仗人不识,打绝世间众豺狼。
伸手举棍漫头过,赫得乌鸦就地翔。
能者识透此中艺,枪法神妙世无双。

baike.baidu.com

 

◎李大忠系八極拳の関連動画

 

八极拳七世传人李世铭(李大忠玄孙)与弟子李金恒八极拳对接_土豆_高清视频在线观看

传统八极拳-李金恒_土豆_高清视频在线观看

 

少林寺公式ウェブサイトにある阿徳「緊那羅考」

 紧那罗王考(阿德)
◎少林书局 阿 德
少林寺伽蓝殿奉祀紧那罗王,有别于全国其他寺院。此乃与少林寺尚武传统有关。紧那罗王在少林寺僧人心目中,具有特殊地位,被尊为“武圣”,为少林寺护法神。紧那罗王信仰是少林寺信仰体系中的特殊组成部分,也是少林功夫作为少林寺宗教文化的核心所在。
据我考证,少林寺紧那罗王信仰实源于观音菩萨信仰的表现形态之一——那罗延执金刚神信仰。观音菩萨信仰始于姚秦时代鸠摩罗什所译《妙法莲华经》,①盛于隋唐,浸淫民俗至今。观音菩萨信仰主要内容,见《妙法莲华经·观世音菩萨普门品》:
佛告无尽意菩萨:善男子,若有无量百千亿众生,受诸苦恼,闻是观世音菩萨,一心称名,观世音菩萨即时观其声音,皆得解脱。佛告无尽意菩萨:善男子,若有国土众生,应以佛身得度者,观世音菩萨即现佛身而为说法;应以辟支佛身得度者,即现辟支佛身而为说法;应以声闻身得度者,即现声闻身而为说法;应以梵王身得度者,即现梵王身而为说法;应以帝释身得度者,即现帝释身而为说法;应以自在天身得度者,即现自在天身而为说法;应以大自在天身得度者,即现大自在天身而为说法;应以天大将军身得度者,即现天大将军身而为说法;应以毗沙门身得度者,即现毗沙门身而为说法;应以小王身得度者,即现小王身而为说法;应以长者身得度者,即现长者身而为说法;应以居士身得度者,即现居士身而为说法;应以宰官身得度者,即现宰官身而为说法;应以婆罗门身得度者,即现婆罗门身而为说法;应以比丘、比丘尼、优婆塞、优婆夷身得度者,即现比丘、比丘尼、优婆塞、优婆夷身而为说法;应以长者居士宰官婆罗门妇女身得度者,即现妇女身而为说法;应以童男童女身得度者,即现童男童女身而为说法;应以天龙、夜叉、乾闼婆、阿修罗、迦楼罗、紧那罗、摩罗伽、人非人等身得度者,却皆现之而为说法;应以执金刚神得度者,即现执金刚神而为说法。无尽意,是观世音菩萨成就如是功德,以种种形,游诸国土,度脱众生。
经中关于观音菩萨“以种种形”示现的表述,使得观音菩萨信仰以多种的形态出现,并随着时代和流行区域的不同,发生着变化。在少林寺流传的那罗延执金刚神信仰,后来省简误转为紧那罗王信仰,正是观音菩萨信仰多种表现形态之一。据佛典,紧那罗王为“非人”,“似人而有角”,是音乐神,是与那罗延执金刚神的特征和职责都完全不同的天神,实与“护法护人”的武力无涉。
那罗延执金刚神信仰,早在唐代即已流行。唐张《朝野佥载》“稠禅师”条载:
北齐稠禅师,邺人也,幼落发为沙弥。时辈甚众,每休假,常角力腾踔为戏。而禅师以劣弱见凌,绐侮殴击者相继,禅师羞之。乃入殿中,闭户抱金刚而誓曰:“我以羸弱为等类轻侮,为辱已甚,不如死也。汝以力闻,当佑我。我捧汝足七日,不与我力,必死于此,无还志。”约既毕,因至心祈之。
撰者张卒于唐玄宗开元间,故此书当成于公元740年前。文中所记前代逸闻,自不足信,但文中表达出来的执金刚神信仰,当是真实的。我们可以进一步推想,北齐稠禅师为少林寺创始人印度高僧跋陀的大弟子,继跋陀任少林寺住持,②以禅法神异闻名于世。既然稠禅师向金刚乞力神迹被《朝野佥载》采录,也应该在少林寺内流传,并成为少林寺信仰体系的组成部分。
那罗延执金刚神信仰流传至金初,可能已经衰落。今少林寺碑廊东壁尚存金初祖端禅师住持少林期间所立《那罗延执金刚神像》碑(如图一)。③图中那罗延执金刚神手执金刚杵,裸胸跣足,威风凛凛,为后世少林寺“紧那罗王”像所本。图上部有文,录文如下:
妙色那罗延执金刚神天身吉祥无边力印:
先须安净身心坐定,以两手四指向掌内交叉,仰掌向上,指亦向上,直树二大拇指,各附二食指侧,大拇指来去,咒曰:(咒略)。
经云此神即观音示现。若人尽心供养,持此印咒,则增长身力,无愿不获,灵验颇多。□能具说以灵验,故学其印、求其咒、模其像者多。故立石,以广其传。
住少林祖端重上石。
此段文字表明了当时那罗延执金刚神信仰的基本情况,也让我们感受到那罗延执金刚神信仰的气氛已不浓厚,以至于“重上石”,“以广其传”。文中所称“经云”,即指《妙法莲华经·观世音菩萨普门品》中观音菩萨示现执金刚神一项,故说“此神即观音示现”。

http://www.shaolin.org.cn/templates/T_newS_list/index.aspx?nodeid=202&page=ContentPage&contentid=1704

蒙元至治年间(公元1321年-1323年),凤林禅师住持少林,④“开创伽蓝堂”,⑤《凤林禅师行状》中未及伽蓝殿供奉神像。但据日本鹫尾顺敬《菩提达磨嵩山史迹大观》一书所收一幅“紧那罗殿内紧那罗王像”(摄于大正十一年,公元1920年)显示(如图二),⑥伽蓝殿在1928年被火烧毁前所供奉的神像,手执金刚杵,其形象正与金代那罗延执金刚神形象相同,而与明代中期开始出现的手执烧火棍的“紧那罗王”形象有异。根据本人所及少林寺文献资料显示,少林寺伽蓝殿自开创以后至1928年烧毁以前,其间没有被毁记载。我初步推断,1928年伽蓝殿烧毁以前所供奉神像,即是凤林禅师开创伽蓝殿时所供奉原神像,即那罗延执金刚神像。
少林寺那罗延执金刚神信仰内容的变化,当发生在明代正德年间。正德十二年(公元1517年)少林住持文载禅师撰并立《那罗延神护法示迹碑》:

原夫释迦文佛,示现周昭王甲寅岁。至后汉明帝永平中,教法始传中国,至洛阳首建伽蓝,肇自白马寺焉。凡天下寺院,皆有护法神而守护之,乃曰护伽蓝神。按传灯录:隋开皇中,天台禅师居荆州玉泉山,有神通谒称蜀前将军关羽,以战功庙食此山,闻师欲营精蓝,愿庀役事。七日而成,捷出神巧,事闻文帝,敕封玉泉山护伽蓝神。且如少林寺者,乃后魏所创,历隋至唐宋间,未闻何神为伽蓝守护之神也,无典可考矣。今其伽蓝神,据景躅集所载,乃大元至正十一年辛卯三月二十六日巳时,颍州红巾初起大乱,来至少林寺。有一圣贤,先在厨中作务,数年殷勤,负薪执爨,篷头跣足,单
形赤,朝暮寡言,不动众念,无姓贯名,常修万行。至日红巾临寺,菩萨持一火棍,独镇高峰,红巾畏之而退,则时即没,后觅不见。乃知菩萨示迹,永为少林寺护法,坐伽蓝之地。僧人子用记。予既睹景躅集,常欲述文,以彰神功。乃谋于众,今本寺僧周载、洪然,慨然命工,勤诸于石,始将来有所考焉。命记之述之如左乃为铭曰:
维兹梵刹 少室之阳 般若悬识 鼻祖道场 守护伽蓝 那罗延王 神威烈烈 难尽赞扬 凡有祈祷 必赐祯祥 善恶报应 影响难藏 护法护人 乃隆乃昌 惟神鉴格 电瞩雷 皇国亿兆 法社增光 灵山付嘱 永作金汤 住山稽首 灵咒昭彰
从碑文看,那罗延执金刚神信仰在文载禅师住持少林时期,已经“未闻何神为伽蓝守护之神也,无典可考矣”,几等于名存实亡了。此碑阴上部刻有那罗延神像(如图三),比较金代那罗延执金刚神像,发现有所变化:那罗延神的面部特征和姿势仍然相同,但原来手中所执的金刚杵,已被烧火棍所取代。这个变化在少林寺武术史上,意义重大,因为这根烧火棍,成了后来少林寺棍法的最神圣象征。那罗延执金刚神信仰也因此由大力神信仰,变成了传授少林寺棍法的“武圣”信仰。四十多年后,一代名将俞大猷“予昔闻河南少林寺,有神传长剑技”,并特地“取道至寺”观技。⑦此处“长剑技”即指棍法。文载禅师将业已淡薄的那罗延执金刚神信仰,赋予“菩萨示迹退红巾”这一全新内容,应该与正德七年(公元1512年)朝廷首次调用少林寺武僧征讨霸州刘氏起义事件以后,少林寺棍法开始闻名于世,有内在联系。文载禅师的用心,显然在于激励寺僧勇于直下担当护法神的职责。这既是修禅者应有的人生态度,同时也是佛教徒特有的应化转世思维方式的表现。少林寺武僧受朝廷调用,并不是以世俗眼中的僧兵形象,而是以佛教护法神的身份出现。郑若曾《僧兵首捷记》:
天员引骑兵左右闪开,诱贼前进。贼先发矢,僧兵亦发矢。天员传令停射交锋。无极摧阵,呼伽蓝三声,大喊:杀!杀!
僧兵临战暗约以靛青涂面。贼见青脸,红巾蒙头,疑为神兵,胆已褫落。⑧
文中“伽蓝”,即指伽蓝殿供奉之那罗延执金刚神。“那罗延执金刚神”省简误转为“紧那罗王”,当发生在正德十二年(公元1517年)文载禅师立《那罗延神护法示迹碑》以后、嘉靖四十四年(公元1565年)匾和尚圆寂以前。清康熙三十一年(公元1692年)《云南鸡足山志》“匾和尚”条:
匾囷和尚,不知何许人,居百接桥东土龛。日惟种圃,夜则跏趺,常以草席为,趺坐其中,形稍匾,故人呼为匾和尚,人传师持紧那罗王神咒。
“匾囷”即“匾囤”。⑨匾囤和尚为少林寺明代高僧,塔在少林寺塔林。其事迹在明万历傅梅《嵩书》、清乾隆焦茹衡《少林寺志》等书中皆载,恐赘不引。匾囤和尚寂于嘉靖四十四年(公元1565年)。在嘉靖四十四年(公元1565年)以前,匾囤和尚即已将“紧那罗王”误传至云南鸡足山区,可见当时少林寺僧人确已将“那罗延执金刚神”误称为“紧那罗王”,此后代代相传,沿误至今。

【注 释】
①楼宇烈:《法华经与观世音信仰》,文载《世界宗教研究》1998年,第2期。
②见唐·裴《少林寺碑》:“稠禅师探求正法,住持塔庙。”碑在少林寺钟楼前,唐开元十六年(公元728年)立。
③祖端禅师事迹见《前住持嵩山少林寺端禅师塔铭并序》,塔在少林寺塔林,金大定八年(公元1168年)立。
④见《嵩岩俊公塔》,塔在少林寺塔林。
⑤凤林禅师事迹见《凤林禅师行状》碑,碑在少林寺碑廊,元至正九年(公元1349年)立。
⑥日本鹫尾顺敬《菩提达磨嵩山史迹大观》,株式会社三宝书院,昭和五十六年。
⑦见俞大猷《新建十方禅院碑》,转引自无谷等编《少林寺资料集》,书目文献出版社,1982年版,第105页。
⑧郑若曾《江南经略》第八卷,四库全书本。
⑨明·程宗猷《少林棍法阐宗》序记:“匾囤尝救人苗夷中,苗夷从,尊而神之。”可互证。
(原文刊于释永信主编《少林功夫文集》第一辑,少林书局,2003年第一版)

http://www.shaolin.org.cn/templates/T_newS_list/index.aspx?nodeid=202&page=ContentPage&contentid=1704&contentpagenum=2